【第十五回】複雑な交差点に興奮
3日目 雑色~新子安 ③
womoライターで寄り道担当の妻【こしあん】と、下調べと三脚担当の夫【つぶあん】。
「あんこは、こしあんかつぶあんか」のような、ある意味どうでもいいけれど永遠のテーマを時おり議論しながら、東海道五十三次を“コマ切れ”で歩きます。お供は磐田市イメージキャラクター「しっぺい」です。
日頃まったく運動せず、極度の面倒くさがりである二人が、どこまで頑張れるか、どうぞ笑いながら見守ってください。(筆者:つぶとこし)
第十五回 複雑な交差点に興奮
川崎宿の美味しい名物「奈良茶飯」を食べて元気もりもり、西へと歩みを進めます。
歩き始めてすぐに目に留まるのが「宗三寺」の案内板。このお寺には「飯盛女」の供養塔があります。
東海道を旅して初めて知った「飯盛女(めしもりおんな)」という言葉。もともとは旅籠で食事の用意や給仕をしたり、旅人の身の周りのお世話をする仲居さんのような存在。しかし、ほとんどの飯盛女が旅人に自分の身を売ってお金を稼いでおり、宿場の繁盛はこの飯盛女の存在も大きかったと言われています。
江戸時代の旅籠の宿泊代は1泊2食付で200文くらい。飯盛女が身を売って稼いだ金額は400~500文、安いところでは200文くらいだったとか。旅人だけでなく、近隣の町村からのお客もいたそうです。
彼女たちは家が貧しくて子どもの頃に身売りされたり、結婚後でも年貢が払えずに身売りされた女性もいました。飯盛女を続けていれば、過労や性病などで病死してしまう女性が多く、25歳まで生きられた人は稀だったといいます。
苦しさのあまりに逃亡しても見つかって連れ戻され、厳しい仕打ちを受けた女性や、好きになったお客とともに心中した女性もいました。
亡くなった飯盛女たちは、「投げ込み寺」と呼ばれる寺に無縁仏として埋葬されました。なので街道沿いにはそうした供養塔が多く残されています。
女性の輝かしい年頃を、家の事情でそんなふうに生きなければならなかったなんて、本当に辛すぎます。
願わくは、生まれ変わった彼女たちが、現世で平和に幸せに笑顔で暮らしていますように。
そして東海道らしい良いカーブの道を進みます。
少し行くと「佐藤本陣」の案内版を発見。現在は銀行になっています。案内板によると、川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近いほうから、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の3つの本陣があり、この佐藤本陣は、第14代将軍徳川家茂も宿泊したと言われているそうです。
新川通りの交差点「小戸呂橋」を過ぎると、まっすぐ一直線に道がのびています。ゴミ袋があったりして街並みが雑多で美しくないのが残念でなりません……(>_<)
この先に京急線の「八丁畷(はっちょうなわて)」駅があるのですが、隣の市場村(当時)までの区間が八丁(約870m)あり、道が田畑の中をまっすぐにのびていることを「畷」といったので、このあたりを「八丁畷」と呼ぶようになったそうです。
八丁畷駅の少し手前には芭蕉の句碑があります。
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
手前にちゃんと麦の穂や草花が植えられていて、丁寧に手入れされているのがわかります。
元禄7(1694)年5月に江戸・深川から郷里の伊賀へと帰る際に川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを句にしたそうです。芭蕉はこの年の10月に51歳で亡くなりました。
ではここで私も一句。
「スマートフォン たよりっぱなしの 歩みかな」
風情もへったくれもないですね。悲しい現代人です(;_;)
八丁畷駅を越えるとほどなくして川崎市から横浜市鶴見区に入ります。しばらく歩くと「横浜熊野神社」があります。神社自体は小さなものですが、ここの前の道路がなんともおもしろいというか複雑な交差点になっているんです。
写真だと横断歩道の線が消えかけているので、なかなか伝わりにくいかもしれませんが、ここ全部が交差点で、どのタイミングで渡ればいいのかよくわからない! 三叉路が2つくっついたような変形四差路。一度渡り損ねると、信号がなかなか変わらないので大変なのです。
こんな交差点、初めて見ました。「えっ、何これ、何これ」と、それだけで大興奮。安いもんです。
しかもこの神社、当時はもう少し離れた場所にあったようですが、
徳川家康公が江戸入国の時に立ち寄り、天下泰平・国家安穏・武運長久を御祈念したそうです。
私たちも、ここまで無事に来れたことへの感謝と、これからの旅の安全を祈りました。
また少し歩くと、「市場一里塚」に到着。日本橋より5里目の一里塚になります。一里=約4kmですから、ようやく20kmですね。
しっかり丁寧に残されていて、隣には小さな小さな公園も整備されています。
こういう場所は本当に助かります~。昼食後に歩き始めてから、なんやかんやで1時間くらいは歩いたので、ここでゆっくり休憩させてもらいました。
この後、鶴見川橋を渡り、鶴見、生麦へと進んでいきます。それはまた次回。
つづく
【つぶとこしがこれまで歩いたルート】
連載履歴
つぶとこしの『コマ切れ東海道あるき旅』 文章担当の妻【こしあん】と写真担当の夫【つぶあん】。日頃まったく運動せず、極度の面倒くさがりである二人が、東海道五十三次を“コマ切れ”でゆるゆると歩きます。